2022年9月19日

僕の家づくりの根っこ

大工の家系に生まれる

昭和40年12月の雪が降る日、
祖父、父と続く大工の家に生まれました。

幼い頃から祖母には、


「お前は大きくなったら、いい大工になるねんで!」

と跡を継ぐ事が当然の様にいつも言われており、
あれは祖母流の英才教育だったのだと今は思っています(笑ばあちゃんと僕.jpg
当時は家の庭の全面に屋根がかかり、
そこで父と職人さんが作業をしており、
毎日その姿を見ながら育ちました。

遊び道具は作業場にあった木や竹。

それらを刃物で削って火で炙り、
奴凧を作ってよく遊んでいました。

小学生の時には夏休みの工作で作った障子凧が、
職員室の前に飾ってあったのを覚えています。

進学できないの・・・・・・


中学校ではサッカー部のキャプテンを任され、
熱中していたのですが、
弱小チームで勝った覚えがありません。

当時サッカーはメジャーではなく、
今の様にW杯に日本が出場できるのは夢のまた夢。

ドイツのベッケンバウアー、
アルゼンチンのマリオケンペス、
ブラジルのマラドーナは神さまのような存在で、
ワクワクしながら夜中のサッカー中継を見ていました。

サッカー以外にはラジオで洋楽を聴くことが好きで、
そのおかげなのか英語の成績は良かったです。

進学先を決める中学3年生になると、
大工になる使命を感じていた私は、
工業高校の建築科を志望。

ただ、職人気質だった父には、


 「高校へ行くより中学出て直ぐに大工の勉強をした方がええ!

頭が硬うなってからでは腕のいい職人にはなれん!」

と言われ、
進学を諦めなくてはいけないかと思っていると、


 「なんぼ何でも、今時、高校も卒業せんと職人やなんて可哀想や」

と母が反対してくれたお陰で、
なんとか高校には行くことができました。

友達の影響を受けて

高校時代はpeace friendship culture club 、
略してPFC(ペンフレンドクラブ)に在籍。

中学時代の勝てなかった部活で心が折れ、
ほぼ活動がないからという理由で入部。

活動がないため実際は帰宅部と同じ。

一緒に帰っていた友達がバイクが好きだったために、
学校の帰り道のバイク屋立ち寄ることが多く、
最初は全く興味が無かった私も、
徐々にバイクに目覚めていきました。

お店の人とも話すようになり、
バイクに乗ってもいないのにバイク屋の常連に(笑)

免許は高校卒業前に取得できましたが、
免許証は学校に預けるルール。

卒業を待ってバイクを手に入れた後は、
水を得た魚のように色々な所を走りまわりました。

自分の部屋の天井に日本地図を貼り、
走った道をマジックで塗りつぶし、
次はどこへ行こうか考えることが楽しかった。

 大工見習いへ


高校を卒業すると同時に父の大工見習いとなりました。

普通は大工の見習いといえば他の工務店に行くのですが、
父は頑固者だったので、


「他のところへ行って、いい加減な仕事を覚えて帰ってきたらあかん」

との理由で他へは行かせられませんでした。

当時は忙しかったこともあり、
世間が週休2日の時代に3ヶ月休みなし。

せめて1日くらいはと、
日曜日が休みになったのは20歳になってから。

一人前に仕事ができない職人は見習いなので、
20代前半までは給料はなく小遣い。

ざっと計算すると時給300円ほど。

見習いの身分なので、
もちろんそれに納得して働いていましたが、
就職した妹がもらった初任給を見た時は、
さすがにショックでした(笑)

そんな収入なので、
バイクのローンとガソリン代とタバコ代で1ヶ月が終わり。

休日なのにガソリン代がなくてバイクに乗れないとイライラ。

仕事以外はバイク一色の20代を過ごした私には、
彼女ができるはずもなく、


バイクが恋人バイクと僕 (1).jpg


と、からかわれていました。

そんな私でしたが29歳で妻と出会い、
30歳で結婚をし、
2人の子どもにも恵まれました。

今はもう2人とも成人し、
それぞれ好きな道を歩んでいます。

ええ仕事

父は、

「仕事は体で覚えるもんや。
人の仕事を見て良いとこを盗まな、いい職人にはなれん。」

「職人はいい仕事をして当たり前。
いい仕事をしていれば自然と人に恵まれ、信頼も得られ、
不景気な時代でも食べて行くことには困らない。」

と口癖のように言っていました。

祖父(亀吉という名前)は33歳で戦死しており、
写真でしか見た事はないのですが、
祖父が建てた建物は未だ残っています。

その祖父が建てたお宅の改築依頼があり伺うと、
お施主様が仰られました。


「この家は亀さんが、仕事をしてくれはってん。
未だに少しも狂わずピリッとしとる。
ほんまに、ええ仕事をしてました。」

この「ええ仕事」というお言葉に、
私も父も誇りを感じています。

湧き上がったある疑問

いい仕事をしなければお金はいただけない

そんな考えが染み付いていたからか、
他の職人の納めた仕事を見て納得がいかないと、
やり直しをしていました。

父に代わりお客様と打ち合わせを始めた頃は、
3日に一度くらいのペースでお客さんの家に伺って希望を聞き、
話が盛り上がって気付いたら深夜になっていたことも。

お客様の信頼を裏切る事はできない

この想いが強く本当に一生懸命でした。

そんな中で最初に打ち合わせを担当したお宅は、
100年ほど経った家の建て替え。


「100年でも大丈夫な家にして欲しい」

というのが施主様の希望。

その頃からある疑問が湧き上がってきました。

昔の家は100年経っても大丈夫なのに、
今の家は30年ほどで建て替えるのは何で?

普通に考えたら50年は何もしなくても大丈夫なのに・・・・・・

新建材の耐久性の低さなのか?

土壁の質の低下なのか?


家づくりへの想い


40年ほど昔は、
田んぼの下層の粘土に藁を混ぜて発酵させ、
1年がかりで土壁を作っていました。

昔の良い土壁は、
金づちで叩いてもびくともしません。

湿気を吸ったり吐いたりする性能もありました。


「壁は息をしよる。木が蒸せへんから家のためにも良い。」

昔はそう言われていました。


自然が育てたものには自然のものが一番相性がいい


使い方を間違えなければ長持ちするものができる


人も自然が育んだものだから共生できるはず


色々なことが頭の中を巡った結果、
大亀工務店の家づくりのテーマが決まりました。


『自然共生の家』

出来る限り自然素材の力を引き出し、
より良い生活環境を提供する。

そのためには、


無垢の桧・米松・杉を構造材として適材適所に配置

断熱材は湿度を調整し内部結露を抑制する羊毛を使用

壁内を通過する空気を浄化するハイクリンボードも用いて
 
羊毛との相乗効果を狙う

内装材には珪藻土・風化造礁サンゴ・無垢の板などを使用し
人に優しい空間を作る

ドア・引戸などは長く使用しても安心な無垢材の物を

施主様の要望を聞くだけではなく、
プロとして良い提案をし、
共に考え共に創る。

そうして出来上がった自慢の家で、
末永く幸せに暮らしてもらえることが、
私たちの願いです。


共に考え共に創り共に生きる

                      WAFFULL HOUSE 大亀工務店  菱田勝己

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